上沼恵美子がM-1卒業することで陥る文化衰退化
なんだかんだ上沼の存在感が特異性を生んでいた
すっかり年末の風物詩となったM-1、2021年は、中年コンビの「錦鯉」が優勝した。もともと漫才に優劣は無いと思う私にとってM-1自体が邪道な番組だと思っているが、勝敗の是非に関しては、個人的嗜好に依存してしまうがゆえ、出来る限り明言しないでおこうと思っている。しかし、とにかく退屈だったという印象は拭えない。唯一、頼みの綱であった上沼恵美子でさえも大人しい。彼女の暴走こそがM-1の見物であり、それこそM-1を特異な大会として演出させていた。上沼の暴走がなければ、単なる漫才発表会、NHK上方漫才コンテストを何ら変わらないものになろう。
芸人殺すにゃ刃物は要らぬ、ものの三度も褒めりゃよい
「芸人殺すにゃ刃物は要らぬ、ものの三度も褒めりゃよい」という箴言(しんげん)がある。どういう意味かと言えば、辛口の批評こそが芸人を育てるというものだ。昔の話になるが、浅草の演芸場では、目利きの良い客が、芸人の「芸」を批判したりしたものである。だからこそ、渥美清、萩本欽一、ビートたけしと、浅草出身の芸人には「本物」が多い。今の審査員を見れば、上沼恵美子、松本人志、オール巨人を除けば、40代の現役で活躍する中堅の漫才師ばかり。中川家、サンドイッチマン、ナイツ、立川志らく。自分の好感度さえも気にする当たり障りの無い批評が続き、毒舌が売りのはずの志らくすら牙の抜けたコメントが目立った。そんな審査から、革新的な芸など生まれるわけもないだろう。
きちんとした批評が文化を成熟させる
例えば、ブロードウェイや、ハリウッドにおける批評は実に辛辣である。エンターテイメントの本場の評論家たちは、批評に対する批判を恐れていない。しかし、優良な批評こそが文化を成熟させるのは間違いない。今の歯抜けたM-1に決定的に欠けているのは、そこである。悪戯に過激に批判するのも正論とは思わぬが(批判と批評は違う)、甘やかしても芸は伸びない。牙によって傷付けられた批評を覆してやろうとする反骨精神すら生まれない。このまま、生温い芸人仲間がワイワイ楽しくやるだけの大会であり続けるならば、コンテストとしての威厳や、その価値自体が薄れるであろう。まさにM-1は、試される時期に来ていると言えよう。
誰も傷付けない笑いを評価する風潮に喝!
たまに某サイトのコメント欄には「誰も傷付けない笑い」を評価するコメントが多くのいいねをもらったりする。馬鹿らしい。笑いとは、広義的に言えば、誰も傷付けない芸術などありえない。そんなものは、笑いでも芸術でも無く、単なるレクリエーョンだ! コンプライアンス優先の空気感が蔓延する息苦しい時代、牧歌的で、倫理観の強いものほど選り好まれる。そんなものの何が面白いか。ビートたけしの「赤信号皆で渡れば怖くない」を、今言ったら「信号は守らなきゃいけない」と真面目に反論してくるのだろうか。そうなれば、いよいよ末期だ。受け手がアホになれば、演者のレベルも下がってくる。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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