無信仰者の筆者が何を思って観たらいいか、着目点を絞るのに非常に難しい映画だった。
キリスト教のことも、当時の幕府の考え、時代背景、仏教の事さえも分からない無知な私が、この映画とどう対峙したらいいのか・・・行きついた先は世界の映画監督、巨匠であるマーティン・スコセッシが日本人である遠藤周作原作の小説を、日本人を起用しながら描いた理由と経緯は何なのか?という疑問であった。
そのためにスコセッシの生い立ちから、当時の時代背景などを知るため日本史を学んだ。そして、ようやく見えてきた、この映画の存在意義・・・単なる娯楽作でなく、宗教論争でもなく、スコセッシによる自己の信仰の再確立と、現代に通じるメッセージ映画だという結論に落ち着く。
もともと、イタリア移民である貧しいスコセッシ少年は11歳の頃にカトリック司祭に憧れ、神学校に進む。列記としたキリシタンなのである。しかし、次第にカトリックの教えに疑問を持ち始め、同時期にロック音楽などの娯楽に傾倒したことで、神学校を辞めてしまう。
これは、元キリシタンながら、その教えに絶望し、棄教する遠藤周作にも共通する部分である。しかし、スコセッシも周作も、キリシタンの未練が残っているというのも大きな注視点である。
これは、劇中で窪塚洋介演じる、キチジローとして描かれている。
(キチジローは保身のために踏み絵も辞さない。しかし、カトリックの教えに従順でいたい相反する想いの中生きる人物である。)
幕府があそこまで徹底してキリシタンを弾圧したにも、布教後の植民地化への危惧、ポルトガル貿易の際の人身売買の事実などもあるだろうが、何よりも、当時の日本が儒教であったことから、絶対権力である幕府に服従する構図と、神の名のもと全てのものが平等を説くキリスト教では、根本的な考え方が違う、つまるところ、権力者に刃向う可能性がキリスト教の考えにある危険性が原因とみる。
このことは、劇中でもイッセー尾方が、キリスト教を「醜女の深情け」「不生女(うまずめ)は嫁入る資格なし」と表現し、主人公ガーフィールドが「日本は泥沼である(=布教の意味を成さない)」と気付かされるという表現に繋がる。
スコセッシの来日時のインタビューでも「隠れキリシタンが受けた拷問は確かに暴力だった。しかし、西洋から日本にやってきた宣教師たちが『これが普遍的な真実である』としてキリスト教を持ち込んだことも一種の侵害行為であり暴力だったんだ」と話した。
スコセッシは、この映画を通じて、弱き者への救済を再確認したという、それは彼が長年抱えていた、幼少期に一度は掛け離れたものの、今も持ち続けている信仰の再確認でもあるように思えた。
トランプ大統領誕生後の米国の分断、ポピュリズムの風が吹き荒れる欧州を念頭に、思想や信仰の多用性を受け入れる土壌の重要性と、強さが文明を維持していく唯一の手段ではなく、弾き出された人々を個人として知ろうとする重要性という現代にも通じるメッセージ作品として成立させたスコセッシに脱帽としか言いようがない。
普段はロック音楽をガンガンに多用した娯楽作を得意とするスコセッシ作ではあるが、終始ほぼBGM無し、それでも途切れることの無い緊張感の3時間弱。暴力描写に定評のあるスコセッシらしく目を逸らしたくなる弾圧シーンも多いが、如何にこの映画が「マジ」なのかが垣間見れた。ガーフィールドのような旬な俳優も出てる市、久々の窪塚洋介が取り立たされているが、何と言ってもイッセー尾方の演技には舌を巻かずにはいられない。
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