英国映画の金字塔でもある前作から20年。
20年前の自分は中学生。周囲が小室やGLAYに没頭してる中、サントラを出来たばっかりのTSUTAYAでレンタルして聞きまくった、英国被れだった自分を思い出す。「アンダーワールド聞いてる俺って特別!イケテル!最高!」とか。
田舎の中学生に多大な影響を与えさせるには、あまりにパンチの効いた映画だった。汚いトイレ。ドラッグ。天井を這う赤ん坊。ドラッグ。なんかファッショナブル(に当時は見えた)なお兄ちゃん達が全力疾走してる姿。ドラッグ、ドラッグ、ドラッグ・・・その裏でかかるイケテル音楽。
一層、英国に対する憧れが強くなる。その直前か直後に、oasisを聴くという最大の事件が俺に襲い掛かっているわけだが、それも手伝ってか、俺は大人になったら英国人になると思っていた。英国こそカッコ良さの象徴で、英国こそ先進的。憧れていたわけだ。
それから20年。同じ田舎で成長し年取った自分。劇中の登場人物とは微妙に年齢層は離れているものの、この期間の長さを身に染みる映画だった。何が同じで、何が変わったのか?これでいいのか、悪いのか?20年後に、20年前に観た映画の(しかも、相当のインパクトを受けた怪作の)続編を見るということは、その期間を感じるということだと、身に詰まるような居心地の悪さを覚える。だって、英国人になってないどころか、英国にすら行ってねえじゃん、俺!
何よりも、劇中の登場人物達が、変わってないのだ。
全員、当然おっさんになってるが、相変わらず馬鹿をやっている。
恨み辛み、過去の呪縛(20年前にユアン・マクレガーが大金を盗んだ件)から逃れられずに、いい年齢して大喧嘩している。時は流れているのに、人間は変わらない。まったく変わらない。この変わらなさは悪い意味で言っている。
なにか、時間の流れの残酷ささえ感じる。変化まではしなくても(出来る人間の方が少ないだろう。三つ子の魂百まで言うし)成長もしてない登場人物たちを見てて切なくなった。
結局は、カタギに生きてなきゃ駄目だぞという教訓を得るが、ま、道は外してないにせよ、20年後にそんなこと教えるなよ、ボイル監督!と思った。もっと早めに言ってくれよと。20年経ったら、もっと根のあるしっかりした大人になっていたんだろうなって思ったのに・・・って誰しもが思うだろう、哀愁の想いや、青春プレイバック的な意味合いの懐疑的な想いが、実は本国でヒットしているという理由かもしれない。(日本でもわずか80数館での公開にしてはヒットしているらしい)
『スラムドッグ$ミリオネア』でオスカーを獲得し、ロンドン五輪の開会式の監督も務め成功させた後の表現としては、それらに聞き衰えない、話題性抜群の続編だったと思うが、正直なところ、あっても文句は無いが、無ければ無くても良かった続編かもしれない。
結局は、この続編を誰よりも待ち望んでいたのはボイル監督自身じゃなかったのだろうか? 20年後にしてケジメを付けた感じ。自分も映画監督として成功を収めた後に、時代の流れに戸惑うこともあろうが、大人になった頃合で、時間との決着をつける必要性を感じたのかなと。大人になるってどういうことかの結論を出したのかなと。
前作のオマージュも多く、音楽も相変わらずかっこいいが、前作ほど革新的なことはしていない。あくまで典型的な続編だ。
ユアン・マクレガーの言った「choise your life(自分の人生は自分で選択しろ)」という言葉が重くのしかかる。
20年か・・・ため息が出る。
最新情報をお届けします
Twitter でROCKinNET.comをフォローしよう!
Follow @ROCKinNETcom
この記事へのコメントはありません。