宇宙人襲来映画は腐るほどあるが、その中でも群を抜いて素晴らしい!
この映画の醍醐味は他ならない、異文化との対峙だ。“YOUは何しに地球へ?”を探る物語である。
言語も文字も分からない存在(そもそも言語があるのか、意思伝達という概念があるのかさえ不明。しかも、容姿や造形もグロテスクな(タコ?)異性物)とコミュ―ニケーションをどうやって取るのかという無謀とも言える様子を描いているのだから興味惹かれないわけがない。
これまでは、こういった異星物との対峙の詳細は映画では描かれて来なかった、『ET』のように人差し指合わせて仲良しとか、『インディペンデンスデイ』のように有無言わさず攻撃とか……そういう単純なものでなく、フィクションだからと逃げないのが凄まじいところだ。
しかし、この物語に惹かれる理由は、この行為そのものが人間的であるからだと気付く。我々人類には、遠い過去に、先住民と開拓者が言語も通じずに対話した史実がある。同じ人間にせよ、文化も言語も風習も違う民族同士が対話をしてきたのだから。
特に、彼らが出す丸い煙状の黒い歪な円が文字(正確には文章である)と分かって、その読解を試みる様が面白い。たとえば、私は英語も中国語も喋れないが、英語の長文を読んだ時に、知らない単語ばかりだとサッパリである。しかし、中国語の文章は漢字があるので意味が何となく分かる時がある。それは文字が造形的だからだ。この造形を理解する回路というのは、この映画で言う宇宙人が出す煙の造形を分析する行為に近いと思った。
「私の名前は佐藤だ」と理解させ、相手が煙の円を出せば、それが「お前の名前は佐藤」であることを表している造形であるということになる。
仮に私が中国の文章で、「更」「多」「的」「被」「料」「可」という漢字が文中にあれば、「あ、ここからは有料ページだな」(例がアダルトサイトかい!)と思うのと同じ、そういう漢字の理解に近いもの。東洋的な発想だなと思った。ま、その描写は些か雑なんだけど、言語学の発祥とはこういうものなのかと思った。
この映画は、言語とは何か、コミュニケーションとは何かの根本を描き、相手に対して理解しようとする“意思”が全てだと結論付ける。
主演の言語学者のエイミー・アダムスが賢明なのである。未曽有の汚染が心配される宇宙船内で宇宙服を脱いでしまうくらい、グロイ宇宙人に対して信頼を寄せるのだ。
誠意だとか、信頼だとか、双方の言語文化を理解した上で初めて良好な関係性が成立するという、根底的なコミュニケーション論に納得させられる。
これらのコミュニケーションの結果は、当たり前のかも知れないが、昨今の世界情勢において、それが成されていないではないか? アメリカは分断され、英国はEU離脱する、北朝鮮は相変わらずミサイルを撃つ、性別間、世代間、国家間で、十分な対話が成されいない結果にほかならない。自国の愛国の行き過ぎた閉塞的な世界情勢に批判的なメッセージ性に唸る。
加えて、冒頭で主人公のエイミー・アダムスの娘が逝去するが、これが意外な伏線としてラストに回収される様が見事だ。
異性物にとって、時間は流動的なものではないという。あまり言うと単なるネタバレになってしまうので、言わないが、アカデミー脚本賞ノミネートも納得だ。と言うよりも、ここ10年でここまで緻密なものは無かったくらいの最高のシナリオに身震いする! 宇宙人映画の傑作が増えたと言って過言でない。
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