ベンジャミン・バトンをも凌駕する、なんとも数奇な人生である。幼少期に偶然乗り込んでしまった回送列車内で転寝してしまったがゆえに、とんでもない遠方まで運ばれ、言葉すら通じない場所(インドでは少なくとも30の異なる言語があり、全体で2000前後の方言が知られている)に降り立った主人公が、ホームレス、孤児院などの壮絶な経験を通じて、オーストラリアの裕福な夫婦の養子縁組になり、Google EARTHの力を借りて、25年ぶりに故郷に帰るという、これが実話だというから驚きである。
逆に言えば、強運の持ち主である。この主人公だって、下手すれば捕まって人身売買されてもおかしくないし、金銭代わりに変な大人に性的搾取されていたかもしれない。恐ろしいことだ。しかし、そんな危機を潜り抜け、孤児院に保護され、養子縁組され、一流の生活と教育を手にした彼は、やはりかなりの強運の持ち主だ。そもそも、幼少期という、かすかな記憶を辿って、バーチャルのGoogle EARTHで故郷を見つけ出すなど、奇跡に近い。科学の力以上に、彼の運の強さに感心した。
主人公が恋人と喧嘩をするシーンがある。心配をかけ続けている家族に自分の安否を伝えたいと、その気持ちが恋人には分かるまいと責め立てるシーンだ。自分を案ずる人がいて、その人が何処にいるかも分からないもどかしさを察する彼の気持ちを想像すると、張り裂けそうな想いだ。
また、ニコール・キッドマンが、これまでにない存在感を醸し出している。養子を本当の子のように愛し、その人生に満足し、それこそ幸せであると断言するシーン。これぞ、正しくハリウッドで流行(?)している養子縁組ブームの、セレブ達の真意、本音なのだろうと思った。地位と名誉、お金があるから出来ることではあるが、それ以上のものが養子縁組をすることに意味合いがあるのだろう。
それと強く感じたのは、人生は過去よりも未来が重要で、後ろめいてばっかでは何の意味も成さないって思っているけど、この映画のメッセージは真逆であること。自分が何処から来て、どこに向かうのかを知るためには、自分の過去・ルーツを知ることも重要だということ。主人公は自分のルーツが分からず、過去の喪失により、経済的にも、対人的にも満ち足りている人生なのに、どこか不安気で、未完成さを感じるのだ。大人になっても拭いきれない喪失感の払拭のためにも、故郷に帰るってことは、彼自身のけじめをつける意味合いがあったんだろうなって思う。
おそらく、映画では描けないレベルの酷いことは起きていたんだろうなって感じる。あくまで、映画は美談にしたいから。先でも、人身売買や性的搾取のような描写があったと言ったけど、もしかしたら主人公は、そういう目に遭ったのかもしれない(じゃないと、大人になっても頭を打ち付ける程、苦悩しないと思うのだ)。壮絶な半生だったと思う。だから、帰郷のシーンなんかは、映画以上の感極まる思いがあったに違いないと思うのだ。逆に言えば、それを、この映画はドラマに出来てないと言ったらそれまでだが。
あまりに時間的にも距離感も壮大過ぎるし、その経験の数奇さが壮絶過ぎて、実話がフェイクに思えるほどで、感動の実感すら持てない。なんだか、「奇跡体験アンビリバボー」を観ているような感覚に近い。ただ、この映画のラストで、ユニセフを通じて、世界の子供の行方不明者は毎年数万にも及ぶことが伝えられ、この映画で起こったことが決して唯一無二な出来事でもなく、フィクションで片付けられるものでもない深刻さを物語っていることを忘れてはいけないと思い示された。社会が子供を守らなければならないのだから。
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