ゆずの新作『BIG YELL』に収録された楽曲「ガイコクジンノトモダチ」が騒動を巻き起こしている。北川が書いたとされる歌詞に「国旗」や「靖国」というワードが書かれているからだ。ゆずと言えば、これまでは無思想的でポジティブな言葉が並んだポップ・ソングを歌うイメージが強かった。政治的なメッセージを発する印象が無かった分、その衝撃は相応に大きかった。
大事なのは大衆文化を右左に分けるなってこと!
ただ、《TVじゃ深刻そうに右だの左だのって》という歌詞に表れているように、昨今やたら安易に右だの左だのと分ける風潮を茶化していることからも、軽いノリが窺い知れ、ポップ・ソングとしての面目は保たれているようにも感じるのだが、18年5月号の音楽誌「音楽と人」の中で、北川はこの楽曲について次のように述べている。
これは清志郎さんの「あこがれの北朝鮮」じゃないけど、文章にして読み上げるとかなり危険そうな内容も、ポップソングにしちゃえば、何だって歌にできるな、と思って書いてみたんだよね。(中略)まずは楽しく、ポップにしたい。でも自分が大切だって思うことは、ちゃんと伝えたくて
ゆずが言うほど国歌は歌われて無いわけでは無い
忌野清志郎の「あこがれの北朝鮮」は風刺である。ロックの根底には反骨精神が根付いているものだ。シド・ビシャスがエリザベス女王をファシストと揶揄するまではいかずとも。ゆずは「あこがれの北朝鮮」を引き合いに出したが、清志郎のスタンスを継承しているのだとすれば、風刺としても弱い。むしろ、ポップ・ソングとして、本来あるべき中庸的な立場で責務を果たすのならば、この曲は「靖国」云々のワードを出さずに、《TVじゃ深刻そうに右だの左だのって》の部分に意見を集約させるべきだったとさえ思えてくる。先に断っておくけど、この曲は右でも左でもないからと言いつつも、桜が綺麗だったという回顧録になってはいるが、靖国を必要以上にポジティブなイメージで描くことは保守であり右傾化と言われても仕方ないことを北川は胆に銘じていなければならなかった。だって、コレ、靖国の桜じゃなくて、上野公演でも隅田川でも良かったわけだし。敢えて、A級戦犯が祀られる靖国を選ぶところに何かの意思を感じずにはいられない。東京裁判を受け入れている史実がある以上は、ポップソングごときが易々と美化するような単純な問題じゃないんだって。
そもそも、北川が伝えたいこととは何か。それは明白で「自国を誇るべき」ということ。
けど、彼よりも少し下の世代である者から言わせて頂くならば、この楽曲で書かれているように《国歌はこっそり唄わなくちゃね》とか《国旗はタンスの奥にしまいましょう》とかに変な違和感を覚える。だって、小学校の校庭には毎日、国旗が飾られていたし、何かと式典では「君が代」歌ってきたし。こっそり歌ったことも無ければ、毎日のように国旗を見上げてたから。国歌も堂々と歌ってきたし、国旗も毎日見てきた。なもんで、ゆずの主張には押し付けがましさを覚える。そんな言われるまでも無いからって。
ゆずの国歌国旗感が20年前で止まっている問題
何故、ゆずの歌詞が、このような時代錯誤が生まれたのか?
日の丸が国旗、君が代が国歌だと法律で定められたのが1999年のこと。それ以降は、ほぼ100%の割合で君が代が国歌として歌われるようになる。今から19年前だ。ゆずは今年で41歳になるので、彼らが22歳の時である。彼らが既に教育から卒業していた頃。柏駅で路上ライブをしている頃だろうか。
また、ゆずが育った神奈川県での国家斉唱率が、1985年が48.8%、1992年が60.2%、1999年が63.6%と全国の中でも飛び切り低い(大阪、北海道、三重に次ぐワースト4)。ゆずは今の若い世代ほど、国旗や国歌に慣れ親しんだ少年期を迎えていなかったのかも知れない。そこで価値観が止まっているから、このような歌詞になってしまった。ゆずの愛国思想は20年前で止まっているように思える。
肯定ばかりが愛国心じゃない!だからミュージシャンは主張する!
けど、肯定ばかりが愛国心ではないと思っているし、批判する愛国の示し方もあると思っている。より良い国作りの為にだ。少しでも現政権や日本批判しようものなら「左翼」扱いされる安直な物事の捉え方。これこそ愚かである。愛国がゆえの批判や意見はあるのだ。共謀罪可決の際には、SKY-HIが「説明ならば放棄(中略)それで作るなんてホント正気?」と歌ったように。2014年に斉藤和義が紅白の舞台で「反原発」と英語で書かれたストラップを肩から下げていたように。
また、サザンが世界平和を歌って(ネット上で無責任に誤解が独り歩きして)左翼的だと炎上したことがあったが、大衆文化に右とか左の位置づけは必要ない。してはいけない。
2016年のフジロックに元SEALDsの奥田愛基氏が出演したこともあった。ただ、これも右左ではない。フジロック自体が意志や主張を持った音楽イベントだという表れに過ぎない。それ以降「音楽に政治をもちこむな」という主張は度々されるが、そんな主張は日本だけ。ケンドリック・ラマーが黒人差別の怒りを歌い、反トランプの象徴とされたり、レディ・ガガや、ビヨンセが女性の権利向上を歌うように、世の中の不条理を音楽で抗う。ゆずが愛国心を歌うのも自由。けど、愛国を歌うのに、侵略戦争におけるA級戦犯を祀る「靖国」とか、国旗国歌法成立以降の教育現場で起きている問題等を、よく吟味しないまま歌ったのも安直だなと思うに尽きる。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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