今まで明かされてこなかったブラック・ウィドウことナターシャの生い立ち、過去を掘り下げ、その人間性にまでスポットライトを当てた、待望のエピソードである。まずは、久々のマーベル映画に感動を覚えた。やはり、マーベルは現代のエンタメの頂点である。物が違う。最初の公開予定日は2020年4月、パンデミックが世界規模になりだした時だった。そのため、コロナ禍で最初に公開延期が決まった大作でもあり、幾度となく公開延期が余儀なくされたことを思えば、この瞬間をどれだけ待ち望んでいたことか、感慨深くて的確な言葉が出て来ない。
比較的「野郎」の多いアベンジャーズ内では紅一点的な立ち位置で(ハルクの片思い相手でしかないイメージ)、あまり目立っていなかった彼女の「戦士」としての肉弾戦が見られたのは素直に嬉しい。超人英雄たちは、空を飛んだり、特殊能力を使ったり、金持ちや神様や蜘蛛小僧や緑の化け物だけに、やりたい放題だが、彼女の場合は訓練で得たもので、人間的肉体性でのアクションだったのが良い。正統派のアクションとしての肌触りが個人的にはツボだった。
なぜ、彼女は戦わなければならなかったのか、語られるべき物が凝縮されている内容なので、他のマーベルキャラとのシンクロはせずとも、彼女の魅力に溢れる時間は濃厚なものだった。過酷な運命を通して、表向きの戦士としての大義名とは異なる、家族というセンシティブな部分にまで踏み込んで描いていることで、マーベル作品の中でも人間ドラマが濃かったように思える。もちろん、それは『エンドゲーム』後だからこそ、尚更、胸に響いたわけだが。
幼き頃に偽の家族として集った、父母妹と暮らしながらも、自分や妹、その他の女性戦士を科学力で洗脳する組織へ反旗を翻すが、この偽家族がどうなるかは、見てのお楽しみ、ただ感じたことを言えば、偽なら偽なりの関係性が垣間見えた時の、歪な「絆」にカタルシスを感じた。すなはち、それこそナターシャが戦う理由、追い求めていたものだったのかも知れない。父親役のデヴィッド・ハーバー(Netflix「ストレンジャー・シングス」でお馴染み)、母親役のレイチェル・ワイズ、妹役のフローレンス・ピューと、面子の濃さが何とも言えない。ナターシャが高所から着陸する際に、伸脚のように片足を伸ばして手を付き、顔をあざとく上げるポーズを妹が茶化すなど、マーベルらしいコミカルもあり憎めない。
もちろん、エンドロール後も見過ごせない。「それは、そうだけど、ちょっと待ってくれよ!」と誰しもが思うことだろう。是非とも、続編を期待したところである。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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