今夏2016年のフジロックに学生団体「SEALDs」の奥田愛基氏やジャーナリストの津田大介氏らが出演することに対し、ネット上で「フジロックに政治を持ち込むな」「音楽の政治利用」と批判の声があがっていることに、アジカンの後藤正文が「フジロックのこと知らない人が言ってるよね」と反論。
※SEALDsの主張に対する賛否では無く、ここで言いたいのは音楽と政治の距離感ね。勘違いなく。
ゴッチは「これまでいくつものNGOやアーティストが様々な主張をステージで繰り返してきた」と、フジロックと政治の関係性について述べ、今回の批判について「『読経に宗教性を持ち込まないでください』みたいなもの」と指摘。続いて「フジロックに」ではなく「音楽に政治性を持ち込むな」という意見であれば、「リスナーは自由に言っていいと思う。そういう意見に忖度するかどうかも、作り手の自由だ。」との考えを示した。
軋んだ想いを吐き出したいのは/存在の証明が他にないから
掴んだはずの僕の未来は/「尊厳」と「自由」で矛盾してるよ
アジカンの名曲「リライト」の節であるが、ゴッチは昔から吐き出したいんだろうね。自由が矛盾することを憂わないためにも、自分の証明のためにもね。だから、こういう臆することないコメントもする、生粋のロック・ミュージシャンだと思う。
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そもそも音楽(だけに限ったことではないが)表現というのは、ある種のアーティストの主義主張、意見だと思う。そこに社会性・風刺が込められることは何にもおかしいことではない。これを批判することは、かつてナチスを批判したチャップリンを、黒人差別や世界平和を願ったマイケル・ジャクソン、女性の権利向上を訴え続けるビヨンセをも批判するに等しい。
最近はフェスの数も増え、各々がテーマパーク化している。手軽に参加できることは別に悪いことだとは思わないが、元来、野外音楽フェスというのは、殊更フジロックは社会と対峙し主張を行ってきた。特に環境問題にはじまり、脱原発や反戦のメッセージを常に発信し続けてきた。そういうイベントであり、何を今更なのだ。
ボブ・ディラン「風に吹かれて」やピート・シーガー「花はどこへ行った」といった曲が反戦集会で歌われるように、音楽にもフェスにもメッセージ性や社会と対峙する意見があって然るべきものだと思う。むしろ、主張もないような、お花畑な音楽ばかりが溢れる閉鎖的な状況こそ怖いし、ロックの意味はない気がする。「事なかれ主義」こそ無難で良しとし、「主張を嫌う」今の世論や風潮にあることだが、フェス参加者もそんなのがいると思うと、「フェス来るな!」って思ったりするのは乱暴な意見かな?
(文・ROCKinNET.com編集部)
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