情報過多な時代、信憑性の薄い情報も、真相を確かめずとも伝達され拡散される現代。善悪をマスメディアが決めてしまう真実の脆さ。そんなフェイク情報に踊らされる現代にイーストウッド御大から強烈な皮肉が籠もったパンチを食らわせられるのが、監督作として通算40作品目となる『リチャード・ジュエル』だ。
1996年7月27日、アトランタ五輪で湧くアメリカで、主人公である警備員のリチャードが記念公園で爆発物を発見。悲惨な爆発事件が起こるが、マスコミは第一発見者であるリチャードを英雄として持ち上げる。しかし、地元紙は「リチャードが爆弾を仕掛けた」と報じたことをきっかけに、リチャードは容疑者として徹底的にメディリンチを受けることになる・・・・・・
この映画で問われるのは大衆と情報の関係性だ。
劇中で地元紙の尻軽女記者は「中年のデブで母親と二人暮らし」だという容姿や事件と無関係な家庭環境だけで、「軍や警官に憧れる下層白人」だと、無実のリチャードを容疑者と疑うFBIの意見を信じ込むなど、人は見た目が100%の差別的思い込みで記事を書いた。
それどころかFBIの推定有罪という常軌を逸した捜査が恐ろしい。汚職警官はイーストウッドが2008年に監督した『チェンジリング』でも触れたテーマであるが、劇中でサム・ロックウェルが「権力を持った人はモンスターになる」と言う台詞のように、正常に機能しない権力の批判を描き続けるのは、御大の内部にあるダーティ・ハリー時代から変わらぬヒロイズムが枯れていないことの証明でもあると感じた。近年は、凡作が続いていた印象のイーストウッド監督作だが、久々にイーストウッドらしい正義を感じる作品に痺れるばかりだった。
ただ、なんせ主人公がドジだったりする。弁護士に黙れと言われても、余計なことをペラペラ喋ったり、「記念公演に爆弾を置いた」と録音されるなど、何かと隙がある。自分の置かれた立場を理解してるのか?と苛立ちを隠せずにいたが、追い込まれた人間は、こうも脆いのかも知れない。その分、サム・ロックウェル演じる弁護士の存在の安堵感が際立っていた。
ネットの中傷やフェイク情報の配信に対する法整備はまだ未熟である。だからこそ、イーストウッドが今回指摘した各個人が、まずは真相を探ろうとする姿勢こそ重要なのかも知れない。ネット、マスコミが言うことが正しいとは限らない。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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