日本人は“不良好きDNA”が流れている。昔悪かった自慢など何の意味も成さないが、これらの無駄な見栄は時代性問わずに一向に廃らないし、年食っても“ちょいワル”なんて“悪”を好む。ビートたけしのカリスマ性と、殿が監督である話題性を差し置いても、この映画がこれほど指示を集めるのは、他でもない日本人の“不良好き”な国民性の反映だと思える。
しかし、かつて「ごくせん」や「ROOKIES」など“不良賛歌”なコンテンツが人気を博した時代に(今だとEXILEなんかがそう)、アサヒ芸能の記事で読んだと記憶してるが、たけしは言った。「昔悪かった不良が更生すると、『偉い。よく頑張った』なんていう風潮があるだろ。だけどそんなもん、はなから真面目にやってるやつが偉いに決まってるじゃねーか!」と。
青年期に母親の教育方針から懸命に数学に勤しんできたビートたけしらしい言葉だなと思ったが、そういう、たけしこそ“不良文化”の象徴的な著名人である。このギャップこそ“たけしがヤクザ映画を撮り続けても許される由縁”である。たけしは、冒頭で言った“昔悪かった自慢”をせず、先のアサヒ芸能でのコメントのように、“不良に対するコンプレックス”を曝け出し、過去を自虐に完結させる。だからこそ、北野映画で一貫して描かれる不良イズムが許される。深作欣二のような70年代の東映の実録やくざ映画と一緒にされては困るのだ。そこをわきまえてるから流石である。
1~2作目の頃は、たけし自身が本格的なお笑い番組に出る機会が以前より減っており(「世界まる見え」でも置物のようになちゃってて)、かつての狂気さも減退し、映画監督に傾倒していた頃だった。そんな頃の己の老衰に反抗するような“無理な”背伸び感が垣間見れた。しかし、最終章にして、ようやく、ビートたけしらしさが感じられて安堵感すら覚えた。これは暴力映画ではない。コメディである。
ピエール瀧が、手錠されて猿轡ハメた滑稽な姿で、たけしと怒鳴り合うとか。
太刀魚が全然釣れないと嘆く大森南朋の横で、たけしが銃をぶっ放したら太刀魚に命中してるとか。
花菱会の塩見三省(病後で随分と年を取った感じが寂しかったけど、流石は名優だ、それでも迫力が違う)が、韓国マフィアの会長の横で日本語が通じないと思って暴言吐いてたら通じてたとか。
ベタベタなギャグが北野ファンには嬉しい限りで、花菱会の幹部が出生した際の放免祝いの会場で、たけしと大森南朋が機関銃で、薬師丸ひろ子ばりに乱射してしまう様には大笑いしてしまった。ラスベガスのフェス会場で銃乱射事件が起きた直後に不謹慎極まりないとは思うが、暴力団の内外での裏切りや陰謀がひしめき合うゴダゴダを一掃するような爽快さを感じてしまったのと、その手法が、あまりに開き直った描写だったもんで、ゲラゲラ笑ってしまった。
特に、ピエール瀧のための映画といっても過言でないくらい、ピエールの存在感は冴えわたっていた。
一般的な知名度があるヤクザ映画といえば、『仁義なき戦い』『極道の妻たち』くらいか。それらと知名度に於いて肩を並べるヤクザ映画を、この2010年代に登場させ、興行で初登場1位にまでさせるというのは、たけしにしか出来ない偉業である。
また、西田敏行など、錚々たる大御所の気迫溢れるセリフ回しなど、現役感を感じることが出来る意味においても、貴重な映画だと思った。
(文・ROCKinNET.com)
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