SF映画の金字塔の続編として圧倒的な成功例
続編映画の最高峰と言ってもいいのではないだろうか? 荒廃した近未来描写は前作を踏襲しつつも、35年前の映像技術よりも発達している21世紀版ブレードランナーの視覚表現を期待以上に成し遂げているし、そもそも本シリーズの根底にある「人類価値」を問うテーマが揺るいでいないどころか、前作を観ていないと理解しがたい部分も含めるファン・サービスも忘れず、それらをきちんと30年の時間経過を以て世界観を描いているのが凄い。
ライアン・ゴズリング起用が勝算だった
『ブレードランナー』は比較的BGMの少ない作品で、話の展開もテンポが遅い。続編もその辺は受け継いでいた。(いや、これがマーベル並みに速いと逆に理解が追いつかなくて困るが)。
そんな静かな映画にして、薄暗い巨大都市に響き渡る「ぶぉぉぉぉーーーん」という重低音が映画館内に響き渡った時の圧倒感といったら無い。SFチックな不気味さと得体の知れない空間の圧迫感だ。視覚・聴覚的な刺激で、まるで劇中の街に引きずり込まれるかのような錯覚を覚える。そんな静けさを併せ持つ映画の中で、ライアン・ゴズリングが絶妙な無表情を貫く。いかにもレプリカントという顔なのだ。その表情が、悲哀にも満ちていて、本作の作風に見事にマッチしている。
旧作との関連性が絶妙過ぎる!
ライアンは新型レプリカント「通称・K」と明確に定義され、旧型のレプリカントを追跡する任務を課せられる。その中で、彼は旧型の農場から女性の遺骨を発見するのだが、なんとその骨が前作のヒロインであるレイチェルのものだと判明。しかも、ここが本作の最大重要ポイントになるが、難産によって亡くなっていることまで判明するのだ。要は、レプリカントが妊娠していたという、人類の存在を脅かす一大事が起きる。
そして、ライアン演じるKは、記憶の中でも大事にしていた木の玩具に掘られている「2021年6月10日」という日付が、遺骨のそばにあった枯木にも書かれていることに動揺する。まさか、「禁断の子供は自分なのではないか?」という疑惑が生まれる。これを読み解くために彼は奮闘していく、その過程のミステリーの構築が実に巧妙で瞳孔見開くような思いだった。本当に拍手だ!
「人類の進歩は果たして正しいのか?」という疑問
ネタバレになるので、ここまでしか内容には触れないが、この映画の何が面白くて、個人的に“美しさ”まで感じたかと言えば、その謎を解明しようとするKの姿が、正しく「人間」そのものだったということだ。母から産まれ(仮)、自己存在の起源を求め、様々なことが判明していきながらも一喜一憂する……レプリカントの姿は、そこには無い。前作のレプリカント同様、本作のKも「魂」を欲しているのだ。これこそ、この続編の最大の存在意義である。
リドリー・スコットが『エイリアン』シリーズでも説いている、「人類の存在意義と行く末」というテーマと重複するが、人間が創造したレプリカントが人間と同列になり、次第に超越していくことの危惧。
AIの発達により数年後には人間の仕事が奪われるなんていわれる現代の警告である。AIとAIが囲碁や将棋で戦い、人間は見るだけになっている。人間は己が作った人工知能に勝てないのだ。これって、結構な由々しき事態ではないか。本当にこのままでいいのだろうか? 進歩は正しいのか? 人間は果たして、どこに向かおうとしてるのか?
結局はデッカードはレプリカントなのか?に尽きる
そして、何よりもハリソン・フォードである。『ブレードランナー』という映画は一貫として、未だに議論が交わされているが「デッカードはレプリカントなのか、否か?」に尽きるのだ。本作でも明言はしない所が憎い。しかも、前作から30年、人間でも生存可能な年齢だし(実際の年月分ハリソンも老いたわけだし)、レプリカントなら尚更可能(前作ではレプリカントの延命処置は出来ないことは断言されていたけど、型が違っていれば、あんな放射能だらけの砂漠で老人ひとりが生き延びてきた理由も腑に落ちる)。謎を深めただけといったら元も子もないが、だからこそ、このシリーズが奥深くなり益々興味が出る。
(文・ROCKinNET.com)
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