当然ながら映画に感情移入できないし、登場人物達の行為を肯定も擁護も出来ない。それなのに、何だろうか? この胸の高鳴りと、熱い感情は。反社でも道を逸れた人間でも、その人生をじっくり描かれると、こうもグッと来るものがあるのだろうかと感動している。
ヤクザ映画と括れば、それまでだが、この映画が抉るのは時代と価値観の移り変わりと、それに翻弄される人間の脆さだった。カタギの我々でさえ、時代の流れに戸惑いながら、社会の寛容性や冷酷さを感じながらも生きている。令和の価値観では、綾野剛演じる主人公のような、ヤクザには携帯電話を持つことさえ許さないほど、排除の姿勢、一切の寛容性も持たない。
物語の始まりの1999年と言えば、山一証券が倒産して三年、バブル崩壊の後遺症を引きづり、それを誤魔化すようにミレニアムイヤーと騒いでいた頃だ。その頃に、街の不良だった綾野剛たちは、ふとしたきっかけでヤクザの道に入る。そこから、2005年、2019年と3つの時代を描く。
この年の選定が見事だった。2005年は時の小泉政権で郵政民営化がはじまり、正規雇用神話が崩壊、格差が広がった。社会が歪みだした頃だった。当然、チンピラの主人公に真っ当な人生は社会は用意していない。
2019年はコロナ前、すっかり社会がネットに支配され今までの常識が通じなくなった新時代、当然、綾野剛などのヤクザの立ち位置も変わる。2000年代に全国で暴力団排除条例が敷かれ、「ヤクザでは食べていけない」時代になり、半グレと呼ばれる、組織に属さないチンピラが幅を効かせる時代。詐欺など新手の犯罪が横行する。そういう、輩から地域を守るという必要悪として存在していたヤクザは、今や絶滅危惧種化した様が、じっくり描かれる。ギラギラしていた若い頃、組に属した頃の冷静ながらも狂気に満ちた視線、出所後の魂の抜けた弱々しい目線・・・・・・各々の時代に置かれたアウトローを、目だけでを演じた綾野剛の気迫に圧倒される。『日本で一番悪い奴ら』でも、その体当たりな演技は目を見張るものがあったが、それをも凌駕する演技。勝新太郎、菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫、千葉真一など、往年のヤクザ映画を彩った名優達に引けを取らない存在感だった。
来年の日本アカデミー賞主演男優賞をあげないなら、あんな賞は辞めちまえと思うほどのものだった気がする。
また、舘ひろしである。タイトルにもあるような「家族」は彼の存在無しには語れない。チンピラでしか無かった綾野剛を拾い、庇い育てた組長。しかし、綾野剛に一度も怒りをぶつけることがなかった。父性とも言える寛容さ、血は繋がっていなくとも、感じる絆こそ、この映画が最も伝えたいことだったのかも知れない。今は血縁関係でも、愛に満ちた関係とは限らない時代だ。そんな中、是枝監督の作品にも通じるが、「家族」の形とは何かを現代に叩き付けるメッセージ性を感じる。
藤井監督(大学学部の後輩なんです)は、『新聞記者』でも社会のタブーに鋭く切り込んだ。今回も然り。しかし、そこで共通して描かれたのは、理不尽ながらも降りかかる時代や社会に、それに抗い、何かにしがみつきながら、信じる正義を探し回る人間の姿だと思った。
壮大な時間を描いた本作、その時間の経過と時代の重み、生きる苦しみ、それを総括させた、ラストの磯村勇斗の表情が見事過ぎて、忘れられない。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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