臨場感のある再現に「あの日」を思い出す。メルトダウン寸前の福島第一原子力発電所の職員達の勇気ある行いは仕事や任務という言葉では片付けられない、何か熱いものを感じ涙腺に響く。
有事の際に、行き詰まった時、最終的には「特攻隊」頼りになってしまう。そういった大義名分のために、個を犠牲にする思想は個人的には甚だ疑問に感じるし、危険だと思っている。しかし、一号機のベントは人手でやらなければならない事情があり、未曾有の事故を防ぐという明確な目的の元の行動は、やはり賞賛すべきなのだろう。9.11以降のアメリカでは消防士が英雄と呼ばれたが、3.11の英雄は彼らなのではないかと思うほどだ。
大地震、津波という未曾有の災害を描くことを避け、ディザスター・ムービーではなく、ヒューマン・ドラマとして描いたことが功を奏したようだ。若松監督の前作『空母いぶき』のような、中井貴一のコンビニ店長のような明らかに浮いてる伏線も極力無くしたことも反省として活きている(笑)
何よりも、この映画の最も見所は、佐藤浩市や渡辺謙をはじめ、骨太な演技で魅せる役者の演技にあると思う。他にも、吉岡秀隆、緒形直人、萩原聖人、安田成美、平田満、篠井英介、佐野史郎と面子を見たら、その本気度が分かろう。(個人的には火野正平が良かった)日本映画界きっての演技派が集結したドラマは終始鳥肌が立つ。
ただ、脱原発の気風高まる昨今、原発に寄せる思い出を描くことで原発そのものが美談になっていくのは違和感がある。吉岡秀隆が一号機のベントに向かおうとした時に「あいつ」なんて、原発を擬人化する台詞すらあったのは首をかしげてしまう。結局、この映画は反原発なのか、原発推進なのか、答えを明確にしていない。
今も放射能はダダ漏れであるのだから、この映画がハッピーエンドで良かったと美談では片付けられない。
また、この映画で総理大臣があからさまな障害として描かれているのには疑問を感じる。官邸が原発処理の障害になっているのは事実なのか? 福島民友新聞に掲載された、東電の協力企業のベテラン作業員のコメントに「こんなところにも総理が来てくれるんだと感心したぐらい」とあるように、必ずしも枷になったのでは無いということ。
これは『踊る大捜査線』以降、キャリア・本店を敵視する心理描写に共感が集まりやすい風潮もあって、大衆映画としては、こうした悪を作った方がいいと思ったのだろうか、エンターテイメントとして受け入れやすいのは確か。ただ、この映画に、詰まるところの3.11に善悪は無い。
そして、佐野史郎総理は「撤退はあり得ない!」とだけ怒鳴るが、実際の菅直人は「東電がやるしかない」(でなければ日本は滅びる)そんな時に「撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。自分はその覚悟でやる」という意味合いとのことだ。あの時、撤退してたら、首都圏含め広範囲で、チェルノブイリの数十倍の事故になっていたことを考えれば、撤退を止めたことの是非は言わずもがなであろう。その描写を癇癪玉のように「撤退はあり得ない!」と省略して怒鳴るだけなのは、脚色が過ぎる。この映画が、事実として風化させない為の映画であるのならば尚更で、この映画で福島原発事故が語り継がれるとしたら、少し正確性に欠ける気もする。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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