メル・ギブソンの映画は苦手である。痛々しいシーンが無駄にリアルで目を覆いたくなるほどだからだ。この映画でも、残虐描写は満載だ。しかし、一貫としてメル・ギブソンが描き続けるキリスト的描写は健在で、彼が如何に敬虔なカトリックであるかを改めて感じる作品だった。『パッション』のラストの、キリストの生還シーンの感覚なんか、我々には到底理解しがたい描写を、ああやって描ききれるわけだし、実際にメル・ギブソンって、中絶に反対なカトリックの教えに忠実に子だくさんだし。
では、この映画で、具体的に何がキリスト教的だったのかと言えば、主人公であるデズモンドが「銃を持たない(非暴力)」「安息日を重要視する」「菜食主義」を徹底していたことの三点だろうと思う(その他にあったら適当に受け流してほしい)。メル・ギブソンも彼のこういった部分に共感を得て映画化に踏み切ったのではないか。
銃を持たずに戦場に向かうなど絵空事ではないかと思われることを、本当にやりのけた英雄を讃える意図以上に、個人的には、この映画はデズモンドの人間性がフューチャーされているように観えた。単に米軍万歳映画でもなく、米軍を支えた英雄映画でもないのは、彼への賞賛ばかりでなく、彼の生い立ちから、父親との関係性、信仰の変化や、信念・思想・性格まで、徹底的に掘り下げられて描かれていることが、正しく監督が彼の人間性に共感して映画化した証でもある。
某サイトのレビューを見れば「日本が悪として描かれ過ぎ」「虫けら同然の日本兵描写」などの偏屈な感想が目立っているが、そもそも、戦争ってものはそういうものだ。虫けら同然に人が死ぬ。CGをほとんど使用しなかったという、劇中では『プライベート・ライアン』さながらの大迫力の戦闘シーンの連続で、緊張しっぱなしであったが、米軍も撃たれるし、日本軍も撃たれる。どっちも悲惨な状況下なことは変わりなく、『ブラックホーク・ダウン』なんて映画があったが、あの映画のように、ソマリア人が米兵によってシューティングゲームのように撃たれていくのとは訳が違う。ハクソーリッジを登り切ったと同時に、爆風で焼かれる兵士や、撃たれる兵士、既にそこには戦死者の腐敗した遺体があって、まさしく地獄絵図。殊更、近年の戦争映画の中でも、戦争の悲惨さが際立っており、この映画が、アメリカに肩入れしているとは到底思えない。
仮にそういう目線で(日本が悪として描かれているように)観ているとすれば、実にシューティングゲームの視点だと思った。要は、カメラが米兵視点の方向に向けられる。向かってくるのは敵である日本兵。だから、撃つ。それこそ一方的過ぎる。日本兵が悪に描かれているのではなく、このハクソーリッジ、すなはち高田高地での戦闘は沖縄を死守する為の最後の砦となる非常に重要な戦闘であるがゆえに、日本兵も必死であった描写をしてるにすぎないのだ。そこに善も悪も無い! 日本兵が撃たれまくって「ふざけるな!」と言うなら、戦争映画は見れない。戦争で多くの犠牲者は出ているのだから。日本が正義ではないと同時に米軍だって然り。戦争に善悪はないのだ!!
偏屈なナショナリズムで映画を観ると映画の真意まで読み取れなくなることに憂いを感じる。
メル・ギブソンが何故、デズモンドが日本兵を助けた描写をしたかについて冷静に考えるべきだ。
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