中川大志が主演じゃないという前提条件を把握してないと戸惑うことになる。よりによって最も知名度が低く、華も無いEXILE系の兄ちゃんが主演だったと把握できたのは物語のクライマックスの時だった。そのくらい、中川大志の主役感と、EXILEの兄ちゃんの脇役感が相反することでの違和感があった。
大袈裟な例えだが、トム・クルーズはどんな映画に出ようと絶対に主演だ。脇役なんてことは有り得ない。『マグノリア』みたいな例はあるが、あれは群像劇なので除外。中川大志がミッション・インポッシブル級の俳優だとかって訳では無く、この面子なら主演でないとバランスがおかしいってこと。
役者には役者の立ち位置がある。中央に立つべき俳優がいる。若手俳優の人気者筆頭の中川は、この映画でも中心でなければいけなかった気がする。バランスがおかしい。完全な配役ミス。LDHの主張が強かったか、事務所の忖度なのか?
そもそも、この映画には青春がない。ドラマがないのだ。それは彼らが帰宅部であることが要因として最も大きい。何にものめり込んでいない。若さを無駄に消耗するなとか糞爺みたいな説教はしたくはないけど、これは映画だ。異性にだけ夢中な青春期を描いただけの本作に何も心が揺さぶらされない。「あの子が好き」それだけ。まるで、そこらの高校生のSNSを見ているようなみみっちさ。キラキラしているはずの劇中の17歳の日々は決して“虹色”ではなかった。
今一度、考えてほしいのは、リア充なんて言葉が定着して久しいが、それって結局、彼氏や彼女がいか否かってことでしょ? 恋人がいれば充実してるなんて実に充実のハードルが低い。その程度で充実してる認定は、浅はか過ぎる。そりゃ、恋人がいるに越したことは無いだろうが、恋人がいればALL OKみたいな軽薄さが逆に惨めだろうって。
UVERworldの言葉を借りるならば、《いつも甘えた家庭に包まれ/友達が100人いて/恋人が何十人いたって/満足出来ない人もいて/自らある種の地獄へ向かって行く/でも僕は違う/家族に憧れ抱いたままでも/まだ上手く友達も作れずに恋愛に臆病なままでも/前を向いて生きている/幸せも感じている/すべては自分次第》ってこと。
そんな自分も高校三年間の記憶をごっそり消しても差し支えないような貧相な青春しか送ってない。だからこそ、キラキラとした高校生活疑似体験がしたかったのだ。たまに、若手俳優が出るteen向けの映画を観るのは、この冴えない自分の青春期の補完作業なんだと自覚はあるが、期待は裏切られたようだ。
ただ、吉川愛の圧倒的ヒロイン感には言葉もなかった。女子高生がイケメンを愛でるだけの映画かと思っていたが、しっかり存在感を発揮していたのが流石だった。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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