スピルバーグが監督で、メリル・ストリープとトム・ハンクスが主演を務める社会派ドラマと聞けば“いかにもな映画”だなと感じて、大体どんな映画か想像が付くもの。サーロインステーキ食う前に「絶対、美味いに決まってる」と思って食ったら、実際に美味いって感覚だ。近年で言うと『ブリッジ・オブ・スパイ』や『リンカーン』なんかがそうであるように。しかし、これほど今の時代に強烈なパンチを喰らわせる映画だとは思わなかった。想像以上だ。スピルバーグが手掛けた社会派作品の中でもトップ3に入るだろう名作と思える。
昨今の日本の報道機関は、文春砲なんて言葉が生まれたように、芸能人の下半身事情を暴露することをジャーナリズムと銘打ってしまう情けなさがある。権力の抑止力としての本来あるべき意義が損なわれている気がしていた。
この映画の制作が決まったのは、トランプ政権が発足してわずか25日だったというから、製作側の並大抵ではない決意を感じずにはいられない。しかも、一年で完成させたスピード感も驚異的ではあるが、それだけタイムリーに世に放つべき作品なんだと実感。
ベトナム戦争の目的は「10%は南ベトナムの開放、20%は共産圏との闘い、そして70%は米国の敗戦という不名誉をなくすため」であり、勝てないと分かりながらも兵士を送り続けたベトナム戦争の真実を記録した“最高機密文書”をワシントン・ポストが報道した。40年も前の出来事である。にも、関わらず、今のアメリカにも通じるテーマ性がある。CNNを名指しし「フェイク・ニュースだ」と大国の大統領とは思えない発言をしたり、記者会見で質問を拒否したりと、権力の暴走に、報道機関がどう対峙するか? スピルバーグが現代に提示したメッセージに賞賛を贈りたい。
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情報源とのやり取りも、郊外の公衆電話を使用するだとか、情報漏洩によりアメリカの安全保障が危険に晒されているとし、ニクソン政権が出版差し止め訴追されたりとか、順風満帆にはいかない展開がスリリングで目が離せない。最大の見所は、そんな危機的状況で、メリルが報道する最終判断を下す場面である。
オスカー受賞作である『スポットライト 世紀のスクープ』と根源的テーマは同じであるが、映画としての質は、こっちの方が上だと感じるほどに、描き方がうまいし、社会派としての堅苦しさ以上に、エンターテイメントに昇華させ、グイグイと引き込まれる。スピルバーグの見事な手腕に改めて脱帽する。
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同時に、報道する側の責任が如何に重いものなのか、報道をする決意が、如何に揺るぎないものであるかを感じることが出来たことが、本作に於ける最大の発見である。これは日本にも同様のことが言える。
劇中でも言われていたが、「報道が仕えているのは国民であり、統治者(政府)ではない」。報道とは権力に歯向かう機関ではなく、その目的は、真実を明るみにすることにあるからだ。都合よく、反日だの左翼だの、ネトウヨだのという言葉が流行し始めているが、そんな左右なんて知ったことではない。公文書は歴史そのもの、文書が書き換えられると歴史が湾曲してしまう。それは些か感心できる状況下では無い。だから、明白に出来る部分は明白にしとこうよってだけの話。ま、俺なんかノンポリの頭パッパラーな人間が言っても仕方ないので、こういうのは「朝まで生テレビ」に任せるとしよう。
新聞報道が発端とされる某学園の文書改ざんも、この映画同様の真相追究にあろう。官僚判断であそこまでの大規模な公文書の書き換えなど無いと、小泉元首相の言葉が端的であった。日本の報道人がこの映画を観て何を感じるだろうか。国会で総理が「読売新聞を読めば」なんて答弁がされるような未曾有<ミゾウ>な自体が起きている。報道は公平さが無ければならない。執拗に権力擁護する偏向報道は果たして? 政府の犬ではないのだから・・・・・・
ネット世論を中心とした今の日本国内の、若干行き過ぎている保守賛美な風潮を見ていて危機感を覚えることもあったが、この映画に出会えたことに安堵すら感じるのだった。日本の映画業界にスピルバーグほどの骨太な映画作家はいないのかな。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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