漫画原作を読んでいない者が、たった二時間程度の実写化を観て批判するのは、作品の奥深さや本質を理解していないと馬鹿にされるだろう。そんなことも重々承知なのだが、それでも、これほど自分の価値観の合わない映画も珍しいと思った作品だった。
要は通常は駆逐される怪物側(少数派)の視点で正義感や倫理観、その葛藤を描いたことが斬新で評価された漫画なのだろうけど、人間を喰らう「喰種」に肩入れするという視点は、どうにも理解しがたい。あくまで映画というものは、人間社会の肯定と批判の上で成立する。批判も結果、肯定に繋がるための批判であるべきだ。この『東京喰種』には感じられなかった。
このもどかしさをどう表現したらいいか悩んでいた。では、分かり易く喰種をライオンに例えればいい。人間しか喰らわない喰種と、ただの肉食獣のライオンを同列にすることは必ずしもイコールではないことは分かっているが、東京に数百のライオンがいたらどうなるか? 人間の食べ残した残飯を食えば飢えを凌げるなどの屁理屈抜きに、現実問題として考えてみれば、捕獲、駆除して当然だろうし、市民もそう願うことだろう。猿一匹が住宅街に現れては大騒ぎするのだ。絶対に、リアリティで考えれば、そうなる。
共存なんて出来ない。共存が出来なければ人間側としては駆除しようとして当然。これは、マイノリティ批判ではない。人類の存在が脅かされたら、相手の事情を汲み取ってる余裕はない。では、あなたはライオンがいる渋谷で、自分が喰われるかも知れないのに109で買い物したいと思うか? 友人が街中でライオンに襲われたと聞いてライオンだって生きてるんだ、俺らが餌になっても仕方ない! 本当に、そう思えるか? 俺は思えない。この作品で言う「喰種」の正義感、価値感への共鳴というのは、そういう「非人間性」にあると思った。
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この作品でも、喰種と人間の両者に犠牲が出て、各々の正義感が描かれている。自分以外の、例えば、宗教、人種、趣向・価値観を持った人間への理解にも通じているような気がしたが、何も多様な価値観を認めないと言っているわけでは無い。人間を喰らう怪物の正義感、主演の窪田正孝が最後らへんで叫ぶ「あなた方の一方的な正義も違うと思う」という台詞に1ミクロンも共感できないだけ。
人間だって多くの種の命を奪い、それを食べて生きている。しかし、食というのは文化である。人間を喰うのは文化ではない。それは異常としないと、食糧不足に陥った時に世の中『羊たちの沈黙』『ハンニバル』のレクター博士だらけになってしまうし、人間性の崩壊を招くだろうし、人としてやってられないと思う。
「喰種は人間(一種)だけしか喰わないが、人間は牛、豚、鶏と多様な生命を奪っているではないか」なんて議論をしている馬鹿がいたのを見かけたが、根本的な部分が失われているように思える。この程度の漫画で人間性を失わないでほしい。
そもそも善悪が反対だ。勧善懲悪で片付けてはいけない複雑な漫画なのだろうし、本来はそういうメッセージではないんだろうけど、如何にも喰種が正義のヒーローで、それを駆逐しようとする大泉洋(彼の演技には毎回圧倒される)と鈴木伸之が対峙するカタキのように描かれるのは、違和感しか覚えなかった。
あと、最近、窪田正孝が過剰評価されている気がしてならない。いつ観ても「デスノート」なのだ。要は、感情を高ぶらせて、わめき散らす演技。どれ観ても一緒。この映画でも、そんなシーンばかりで、彼の表現力の広さを感じるには至らなかった。こういう漫画原作なら致し方ないのかもしれないが、もっと違った側面をそろそろ見たいものだ。決して嫌いな俳優ではないので。
(文・ROCKinNET.com編集部)
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