かねてからLGBTの人権尊重を社会に訴え続けてきたレディーガガ。その功績が称えられ「ミス・ゲイ・アメリカ」に表彰されたという。ガガ自身、ブレイク前から“バイセクシャル”であることは公言しており、実際にLGBTからの支持も大きい。性的な概念をも超越した存在という意味では、デヴィッド・ボウイやプリンスに続くアイコンとして世界的に認識されている希少な存在である。
同賞をガガに授与した団体の代表は「私たちはガガを愛しております。ガガはこれまでLGBT、特に若者のために、数々の素晴らしい活動をしてくれました。それによって私たちは真の自分を受け入れ、多様性を守り続けることができました。この賞は彼女への敬意を表すに相応わしい方法だと思い捧げます」とコメントしている。
特にガガの2011年の大ヒット曲「Born this way」は、マイノリティーへの応援歌で「トランスジェンダー」という言葉が歌詞に登場する歴史上初のチャート1位を獲得した曲でもある。
LGBT問題を避けて通れない時代に
今年、世界で特大ヒットを飛ばした『美女と野獣』(世界の歴代興行収入で9位)でも、ディズニー初のLGBTキャラクターが登場することで、上映中止にする国も出て来るなど大きな騒動となった。このように世界中でLGBTの人権問題は取り立たされており、時代が変動しているのを肌で感じる。
しかし、日本のLGBT理解は特に遅れているように思える。それを象徴する騒動があったばかりだ。フジテレビの「とんねるずのみなさんのおかげでした」の特番で、往年の人気?キャラである保毛尾田保毛男が復活。往年のお笑いファンは懐かしみ喜んだが、これに抗議が起き、フジテレビが謝罪する事態にまでなった。
日本はLGBT理解に送れる先進国
この問題の何がいけなかったかを問えば、先でも言った日本人のマイノリティーへの理解不足もあろう。黄色人種であるにも関わらず、日本人は留学経験者数が先進国の中でも群を抜いて少ないため、自分がマイノリティに立たされる経験がほぼない。差別に対する意識の低さが根付いているといって過言ではない。
日本では性転換の際に、子供が作れないように義務付けられている。もう、性器を別の性別のものに作り替えるとか、SF過ぎて付いていけないのが正直なところだが、先進国の中でも遅れている。どこぞの議員の差別発言もあったりと、確かに日本での理解は乏しい方だ。
この差別の問題は生理的憎悪の有無
例えば、保毛尾田の差別意識だけ指摘するのはおかしいと、同じコーナーに出演していたビートたけし扮する鬼瓦権造が、土建業労働者を揶揄してるが苦情は起きないと言う意見もあったが、それは「生理的憎悪」から発生していないからだ。「お前ってゲイなの? 気色悪いな」は巷でよく聞くが「お前って鳶なんだって? 気色悪い」とはならない。そういう生理的な部分が関与しているか否かで、ゲイに対しては陰湿なイジメも起きる。
保毛尾田でイジメ被害に遭ったことからの反発
実際にLGBTの反応も賛否両論だったという。プライバシーを最優先して、ここでの引用は避けたいが、(プロフィールで年齢明記のアカウントに限定して)80名程のLGBTの方のツイートを見ると、傾向として30代後半以下のLGBTの方は寛容で、異性愛者と同様に、保毛尾田擁護の声が多かったが、30歳を境目に様変わりしていく。要するに、保毛尾田をリアルタイムで見ていた世代である。岸田今日子が出ていた頃の話なので、相当前だ。その中には「このキャラには嫌な思い出あるな~」とか「ホモ男と強制的にアダ名を付けられて辛かった」と自身が当キャラクターによって嫌な思いをしたことがあるという意見がほとんどだ。要は被害を被っていたわけである。我々には知る由もない部分で被害はあって、当時はその苦痛も発信されなかった、されてもSNSもない時代で届かなかったが、それが表に出やすい2010年代にやったのは番組側が浅はかとしかいいようがない。時代性が読めてないわけだから。それと、今も幼き多感な少年少女が自分の性で誰にも相談できずに悩んでいる子がいるのを考えれば、大人が容易く、いつまでも差別を助長させる冗談をしつこくやる意味は無い。
もちろん、それでも「懐かしいし、いじめも昔のことだから」と気にしない意見も多数あったし、幾度となく起きた抗議に対しても「同じ同性愛者として恥ずかしい」「逆効果なのでは?」と批判的な声もある。
ただ、今回の騒動で結局は多数派となった「何でもかんでも苦情」「面倒臭い奴ら」「テレビで何もできなくなる」という意見自体がマジョリティの意見であり、差別であるという自覚は持たねばならない。自分達は寛容だと言い聞かせたままで、理解してる風なだけでは差別の解決には当然ならないからだ。
そもそも笑いは差別である
しかし個人的には、そもそも「笑いとは差別を要する」と思っている。万人が傷付かない笑いなどない。ブスな女芸人を笑うこともあろう。太ったことをネタにすることもあろう。ハゲも然り。シャクレも然り。それで、嫌な思いをしている人が皆無とは言い切れない。いや、必ずいるだろう。誰しもコンプレックスは持っているのだから。それでも、大きな差別意識に繋がらないのは、先でも述べた“生理的嫌悪感”の有無だ。性的嗜好の生理的な印象論は根強い。ジェンダーレス男子が持て囃される昨今においても。
スタンダップ・コメディーに見る差別回避の笑い
では、どうだったらお笑いに於ける差別は許されるのか? それらをうまく消化してるのがアメリカのスタンダップ・コメディアン達である。流石はエンターテイメント大国だ、日本のバラエティとはレベルが違う。まず、多人種国家である以上は彼らはあからさまに悪意ある差別をしない。
例を挙げるとすれば、オスカーの大舞台でエレン・デジェネレス(レズビアンを公言)が「ハリウッドなんてゲイと黒人とユダヤ人がいないと成立しない」と言って笑いを取ったことがある。(※上記の動画内では発言してない、このオープニングの締め括りに発言)LGBTがLGBTをネタにするのは差別には当てはまらない。まして、その発言は嘲笑にするものではない。マイノリティの立場を優位に捉えるジョークである。要は、わきまえているのだ。
LGBT差別同様に深刻なのは黒人差別である。白人警官による黒人の不当な暴力が問題となって記憶に新しいが、ずっと続く、この問題を笑い飛ばすように頭角を現したのが、希代の黒人スター、エディ・マーフィーなわけである。1984年の『ビバリーヒルズ・コップ』は白人警官を差し置いて、黒人である彼が事件を引っ掻き回して解決させるという一種の皮肉でもある。当然、全米どころか世界的に受け入れられヒットした。
今回は時代性にそぐわなかったで締め括ってOKでは?
日本でも、マツコ・デラックスが好きなタレント調査の男性部門で、明石家さんまや嵐を抜いてトップになっている現実もある。マツコが自身を「デブ」とか「オカマ」と自虐的に発言してもクレームは起きない。要は、極論的に言えば、石橋貴明がゲイだったら批判は起きなかった。笑いにすることと、馬鹿にする嘲笑対象にすることは異なる。とんねるずだけに限ったことではないが、日本の笑いは嘲笑にすることも多い。傷付く対象が、自分の言動によって、どの程度傷付くのかをわきまえているかどうかの話。ビートたけしの毒舌は、そのへんをわきまえている。保毛尾田は嘲笑に過ぎない。保毛尾田騒動は今まで黙って耐え抜いてきた少数派の意見の爆発と捉えればいいかなと思う。
参考引用:http://www.tvgroove.com/news/article/ctg/1/nid/36809.html
(文・ROCKinNET.com)
※無断転載・再交付は固く禁ずる。
引用の際はURLとリンク記述必須。
最新情報をお届けします
Twitter でROCKinNET.comをフォローしよう!
Follow @ROCKinNETcom
この記事へのコメントはありません。