フジロックにディラン降臨である!!!!
フジの客層が“おひとり様中高年”の集まりになっていることを憂いたことがあったが、
もう高齢化とか大衆文化とかの次元を超えたレベルである。
ノーベル賞を受賞してから初の来日公演がフジロックで実現するという奇跡。
日本のフェスにボブ・ディランを呼べるのはフジロックしかない。ここに“例え老いても聖地”なフジロックの底力を見せつけられたようで敬服する。
ある意味、ディランがフジロックに出るというのは、邦楽ロックフェスのように、画一的なROCKがそこら中で鳴り響き、観客まで似た人種が集まり、同調圧力のように同じノリをする音楽イベントが、「フェスとは何たるか」という原点に立ち返るきっかけに成り得る事件でもあると思っている。
フェスって、元々はウッドストックまで時代を遡れば、ヒッピーとパンクスという異なる嗜好者たちが、ひとつの文化で交じり合ったということでも大きな意味を持つ。そこで、本来の目的であった「音楽を奏でるだけの場」としてではなく娯楽産業として肥大すれば、飽和期もいずれ来ると危惧すら覚える時もある。
しかし、ディランは自身の代表曲をやるとか、そういう産業的な思想は一切持っていない。サービス精神が無いわけではなく、音楽を奏でること自体に意味を見出している、それだけだ!
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ディラン自身、70年代にロックが産業化した時点で、アリーナ級のツアーを辞めているように、音楽業界では常識となっている“アルバム・プロモーションのためのツアー”や“大型スタジアムでのライブ”とは無縁の人。自分がやりたい曲をやるだけ。それが彼の生業だから。で、余計な事情も話さないし説明もしない。ノーベル賞だろうが、生業以外は全て邪魔なだけ。
それどころか、2000円年以降は、新曲を描いていない。音楽の消費産業化を嫌うからか。付け焼き刃的にベスト盤とか熱心に予習しても無意味だ。純粋に、その場に流れる音楽を聴くだけだ。ただ、そこに流れる音楽に触れることがフェスの原点であり、「その光景こそがフェスなんだ」ということを忘れてはならない。能面化した特徴の無い日本のフェス文化が再び原点へ立ち直るきっかけになったらいい。
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2001年から動員が増えたというフジロック。それは、紛れもなく、この年に、ニール・ヤング、オアシス、エミネムをブッキングしたことに因るだろう。この頃から「世界のフジロック」と評されるようになる。
これに倣うように連なって、サマソニも2003年にブラーとレディオヘッドを呼んだり、ロック・イン・ジャパンも2005年にはサザンオールスターズ、Mr.Children、坂本龍一など、ブッキングに力を入れ、各々のフェスが認知度と市民権を得た。日本のフェス文化の「最初の夜明け」とも言うべき出来事だったに違いない。言わずもがな、フジロックが先頭を切ってきた。
フジロックが動き、日本のフェス文化全体の底上げが行われた。
今回のディラン出演は、成熟しきって、テーマパーク化された日本のフェス文化の第二の夜明け、日本のフェス史に於ける強烈なエポックとなる年になることは間違いない。中高年もステージ後方で座ってる場合じゃない、苗場に熱き音楽の魂よ、蘇れ! フジロック御見それしました!
参考出典:realsound.jp/2018/03/post-175659.html
(文・ROCKinNET.com編集部)
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